初めまして!「陽だまり」の主宰者・比嘉さやかと申します。まずはプロフィールをご覧ください。

- 1985年12月15日:沖縄県で生まれる
- 2017年5月〜 ヨガを学び始める
- 2017年9月〜 フリーヨガインストラクター
- 2018年6月:yoga house 陽だまりオープン
今は陽だまりに住んでいて、愛猫の「にゃん太郎&こてつ」を溺愛しています。にゃんずのインスタもやってます。笑 みてね!
興味があることにはすぐに取り組みます。
西野亮廣エンタメ研究所に入会していて、日々サロンメンバーから刺激を得ています。
あと、2019年6月より心理学も学び始めました。今はプロの心理カウンセラーを目指して学びを深めています。
2020年8月にはマヤ暦のアドバイザーを取得。
宇宙、地球、生命の神秘に触れることも好きで、ヒーリングのお勉強もしています。笑
バラバラに見えて全ての学びが繋がっていると感じる今日この頃。これらを活かしたオリジナルのサービスを提供できるように試行錯誤中です。
旅行は国内も海外も好きで、今は屋久島とバリ島、オーストラリアに行きたいと思っています。
人とおしゃべりすることが好きなので、気軽に話かけてくださいね。
どうぞ、宜しくお願いいたします。
2020.8.17更新
1985年12月15日:沖縄で誕生!

結婚式場を営む父親と専業主婦の母親との間に3550グラムの大きな女の子として沖縄市で生まれました。
名前は4歳上の姉がいくつかの候補の中から「さやか」を選んでくれたそうです。
私が生まれてすぐに家族4名で北谷町に引っ越し、今でも北谷町にある実家に住んでいます。
小さい頃は1人で遊ぶのが上手でレコードやテープ、ラジオを聴くのが好きでした。ラジオで聴いた百恵ちゃんのいい日旅立ちをよく憶えています。
幼稚園の頃から背が高く、小学校2年生の時には人より早い成長期を迎えました。
その1年で身長が14センチ伸び、学年の誰よりもデカくなりました。小学校6年生には153センチになり、それ以来身長は残念ながら伸びていません。
当時はデカイと目立って恥ずかしいし、女子扱いされず、イジられるのでいい気持ちはしなかったです。今では話のネタですが。笑
明るく楽しく、マセガキな一面もあった小中高時代
小・中・高と学校では明るく楽しく過ごし、勉強もそつなくこなす優等生でした。
4つ上の姉がいるのでマセガキな一面もあり、小6で眉毛を整えて先生からの呼び出しされ、進学校の高校では髪を染めて部活の顧問に呼び出しされるなど、ちょっと悪いことをするのがカッコいいと思っていました。
ダッサイですね~。
ヤンキー漫画流行ってましたもんね!今日から俺はとか読んでました!
あと、この頃ずっと直せない遅刻という欠点がありました。
中高は特に授業への遅刻、部活への遅刻が常習化していました。なぜか起きれなかったんですよね。。
こんな私ですが、中高ともにバスケット部でキャプテンをしていました。責任感があり、仕切るのがうまい方なんですが、時間のルーズさだけは抜けませんでした。
今ではゆとりを持って行動できるようになっています!
学校生活では大きな悩みはなかったのですが、小学校の頃から母親のしつこい干渉に反抗していました。
一番ひどかったのが、中学校3年生の高校受験の時です。
勉強しなさいと口うるさいのはもちろん、心配を通り越した被害妄想を口にするようになりました。私の受験を近所の人が邪魔をするために悪口を言いふらしているなど。
なぜそんなことを言うのか訳が分からずほぼ毎日喧嘩をしていました。今ではそれが私の1番の邪魔だよって突っ込みたくなるんですが・・・。
無事に高校へ入学しても母の被害妄想や過干渉は無くなりませんでした。
母は次第に体調を崩し、ベッドで横になることが多くなっていきました。この頃は更年期かなぐらいにしか思っていませんでした。
そんなこともあり、お家に居るのが嫌で休みの日は必ず外出をしていました。
必然的に大学もお家を出たいがためだけに県外を選びました。大学は後期試験ギリギリで受かり、福岡にある北九州市立大学へ行くことが決まりました。
大学進学と母の病気
そんな矢先、母の病気が発覚したのです。
初期の乳がんと治りにくいとされる心の病気です。(病名が気になる方は直接お伝えしますね)
いくつものショックを受けました。
一番のショックは私が小学生の頃から精神科へ通院していたことを話してくれなかったことです。
親心から黙っていたと思いますが、話してくれなかった寂しさ、気付くことができなかった自分への怒り、情けなさもありました。
病気だと分かっていれば避けられた喧嘩がいくつもあるのではないかと思わずにいられませんでした。
また、状況を知ってか知らずか対応しなかった父へも憤りを感じました。
幸い、乳がんは1回の手術と服薬で完治することができました。
心の病気については今も月に1度、病院を受診して服薬でバランスを取っています。
県外の大学生活で良いことも悪いことも経験

そんなこんなで大学に進みましたが、沖縄との環境の違いに驚かされました。
桜がひらひらと舞う光景はとても美しく、感動しました。
いい事ばかりではなく、純粋だった私は入学してすぐに怪しい宗教の勧誘やネットワークビジネスの商品を売りつけられるという経験をし、軽い人間不信になってしましました。
今思えば、軽い引きこもりですね。心を開くことができず、人と少し距離をとって接していたと思います。
そんな私にも仲良くしてくれる友達がいたので、なんとか4年で卒業することができました。
友達と海外旅行へ行ったり国内を旅できたのはとても有意義で貴重な体験となっています。
大学卒業後、沖縄へ戻り父親の経営する結婚式場に勤務

就職活動時、特にやりたいことがなかったので合同説明会に参加して会社を探していました。
そこで私が興味を持ったのは鉄鋼メーカーです。地球の資源から物が生み出される様にとても感動し、惹かれたのを覚えています。ほぼ男性しかいないことと、営業職に自信がなかったので諦めましたが。
大学3年の春休みに就活の相談も兼ねて沖縄へ帰省した時、父より会社を手伝って欲しいと言われ、それを承諾しました。
なんとなーくいつかは手伝う気がしていたので大学も経済学部経営情報学科を選んでいましたし。卒業してすぐ働くとは予測していませんでしたが。
ということで、大学卒業後、沖縄へ戻り父の経営する結婚式場で働き始めました。
社長の娘だからと言われたくなくて一生懸命働きました。

ですが、社会経験のない小娘が長年勤めている社員を説得して動いてもらう、ましてや赤字の経営を立て直すことなど到底できませんでした。
悔しくて涙を流す日も少なくありませんでした。
主な仕事はブライダルアドバイザーとしてお客様の接客、成約、当日までのサポートでしたので、やりがいもあり、とても楽しかったです。
この頃は仕事が忙しく、休みは週に1回、若さゆえに乗り越えられたとしか思いません。
休日はマッサージや岩盤浴など疲れを取ることにお金を使っていました。
家に帰っても自炊も出来ず、自分のこともままならない中、母の面倒をみることは出来ませんでした。
母の食事が不規則になり、薬を飲む回数を間違えたりして症状が悪化し、入退院を繰り返していました。
その頃の私は「何のために働いているのか」、「今幸せか」など考える時間、体力、心に余裕もなく「考えない」ことを選択していたように思います。
それなのに母に対しては普通になって欲しくて、自分にとっての「普通」を押し付けて母を変えようと躍起になっていましたが見事に空回りするばかりでした。
何か一筋の光を求めて魂についての本やスピリチュアルな本を読み漁っていました。
少しずつですが、人を変えることは出来ない。自分が変わるしかないことを自覚していきました。
25歳の時:ヨガとの出会い

25歳の時、心を強くしたいとふと思い立ち、それには瞑想だ、瞑想といえばヨガだと思い、近所の公民館でやっているヨガへ通ったこともありましたが、忙さにかまけて半年ほどで行かなくなってしまいました。
困難は続き、私が28歳の時に結婚式場が閉館しました。自らの至らなさに悔しさが残る経験となりました。
当時、やりたいことも分からず、ワーキングホリデーにでも行ってくるかと情報を集めながら短期の仕事をしていた時、今度は父親がうつ病になり緊急入院しました。
私の心境は「何で私だけ、こんな思いをしないといけないのか」です。
父の心配よりも不満が先に出てしまいました。いっぱいいっぱいだったんだろうなーと当時の私をハグしてあげたいです。
父が退院をして、落ち着いてからは役所の臨時、土日休みで定時であがれる条件のいい会社を選んで働きました。
仕事に慣れた頃から人間関係に悩んだり、納得できないことを我慢したりして、ストレスを感じていました。
1年半ほど勤めた時、毎日イライラしている自分に気づき、このまま働いていくことに限界を感じました。
ようやく逃げずに自分の内側に目を向け、本当にやりたいことは何かを問いかけ始めました。
すると、前向きで楽しそうに仕事に励む人々とのご縁が増えていきました。
その中の一人に私は仕事を辞めたいけど何がしたいのか分からないと話をしたことがありました。
お酒も入っている場でしたので、だんだんと話が盛り上がっていき、「結局あなたは何がしたいの?」と強めに聞かれた私は「人を癒したいです」と咄嗟に答えていました。
私、人を癒したいんだなーとしみじみ。
その後、自分の想いと向き合い、これまでの人生を振り返りながら具体化を図りました。
心身ともに疲れていた私は、人を癒す前にまず自分だなと思い、ヨガを思い出しました。
そしてこれまでの仕事を振り返ったときに、自分にしかできないこと、私の替えはいないと自信を持って提供できる価値あることを仕事にしたい!そうだ!それはヨガだ!と確信しました。
また、直感的にイケると感じたことも決断の要因になりました。
仕事を辞め、ヨガのインストラクターに!

そこからはトップスピードで動きまくりました。
仕事を辞めることを会社に伝え、ヨガのレッスンに通い始めました。
不安がなかったかと言えば嘘になりますが、身体も柔らかい方でしたし、とにかくやるしかないという想いで必死でした。
それから1ヶ月休職してヨガの資格を取りにハワイに行きました。なぜハワイかというとずっと行きたい場所だったからです(笑)
ほぼ初心者の私は講座についていくのに必死でしたが尊敬できる先生に出会うことができ、とても満足のいくヨガ留学でした。
帰ってきてから1ヶ月後には仕事を辞め、フリーのヨガインストラクター となりました。
決めてからここまで約4ヶ月です。パワフルですね!
フリーになってからは身近な人に顔が優しくなったと言われました。それまでどんな顔してたんだって恐ろしく思いましたが、嬉しかったです。
フリーで動きながら、自分の居場所が欲しいと思いました。
それは両親との距離感が分からなくなり、とても気を遣い、実家があまり居心地が良くないことが関係していると思います。
大学生の頃に一人暮らしをしてもその孤独感、居心地の悪さは変わりませんでした。
私の満たされない想いから来ていると思います。
今はこの陽だまりが私の居場所となっています。
そしてヨガに来てくれる方、遊びに来てくれる方との交流によって私はパワーを貰い、満たされています。
愛猫みーちゃんとにゃん太郎の存在

また、私がグレずにここまで来れたのは愛猫のみーちゃんの存在があったからです。
私が10歳の頃に小学校で拾ってきてから22年間私を支えてくれました。家に帰りたくなくてもみーが待ってるから帰ろう、本当にそう思っていました。
私の独り立ちを見届けてから天国に旅立ちました。
落ち込む私の元ににゃん太郎(猫)が現れ、今はこの子に支えられています。
だからロゴには猫をあしらっています。
気軽に話せる人がいる、そんな空間を作りたい

大人になると、気軽に話せる友だちとも頻繁に会えなくなったり、疎遠になったりします。
ですが、新しく友だちを作る機会もなかなかないですよね。
なので、陽だまりに来ると、気軽に話せる人がいる、一人じゃないとあなたにも思ってもらいたいのです。
私があなたと関わることで支えられているように、私も陽だまりもあなたを温かく迎え、みーちゃんやにゃん太郎のようにそっとあなたを支えますのでどうぞ居場所にしてください。
なので、身体が硬くても、初心者でも問題ありません。
一緒に談笑したり不満も不安も悩みもくだらないことも語り合いましょう。
そんな場所になることが私の喜びです。

追記 2020.8.17
2020.6.18 愛猫「こてつ」が仲間入りしました。
人懐こい「こてつ」、イケメン「にゃん太郎」と一緒にヨガができますよ!
猫好きな方にはたまらないと思います!お待ちしてますね!
お読みいただきましてありがとうございます!
経歴&資格

- 北谷第二小学校→北谷中学校→球陽高校
- 2004年 北九州市立大学へ
- 2008年4月〜2013年9月 結婚式場ソワ(ブライダルアドバイザー)
- 2014年10月〜2015年6月 宜野湾市役所臨時(都市計画課、企画政策課)
- 2015年7月〜2017年8月 省エネ関係の会社で営業担当
- 2017年5月〜 ヨガを学び始める
- 2017年7月 1ヶ月休職し、ハワイでRYT200を取得
- 2017年9月〜 フリーのヨガインストラクターへ
- 2018年6月〜 yoga house 陽だまり オープン
- 全米アライアンスRYT200 修了
- 陰ヨガTT 修了
- マタニティヨガTT 修了
陽だまりの場所
